本日の巡検は、長春/新京の市街視察を通じて、満鉄時代に日露のフロンティアとして計画され、満洲国時代に国都として計画された長春/新京の建物や都市建造環境が、現在どのような変化をしているのかを知り、その要因を考察することを目的としている。
昨晩から、私たちは中日友好会館に泊っている。巡検が始まって今まで旧ヤマトホテルしか泊っていなかったため、一般のホテルは初めてで、むしろ新鮮である。「中日友好」と書いてあるが、日本人客の姿は私たち以外には見えず、中国人客は今までのホテルに比べて非常に多かった。私たち宿泊した二泊の間は、日本人が多く泊まっている、日本語のできる従業員がいる等の「中日友好」が表れている場面はなかった。日本のODAで建設したという経緯でもあるのだろうか。
要するに普通のホテルである。内装は、割と綺麗であり、ルームサービスや洗濯も有償だが完備されていた。朝食は、バイキング形式であったが、今までのホテルにはなかった、蒸し餃子やチャーハンや紅茶があった。日本人が一般的に餃子に対して想像するものは焼き餃子であるが、中国では水餃子・蒸し餃子が一般的である。本場の餃子を、満洲の巡検五日目にして初めて食すことができた。
私たちのホテルは、満洲国の首都計画によって建設された都市の東のはずれ、伊通河の川べりに建っている。
ホテルを出発し、駅前までの市街を通り抜ける街路をすすんだ。ここは、満鉄時代に商埠地であった地区を通り、附属地であった地区へと向かうものである。ホテルから駅前に向かって、小売店が多く並ぶ地域から、百貨店や銀行、ホテルが並ぶ地域へと都市機能がより高次なものとなってゆく。これは、満鉄時代に中国人商業をになった商埠地と、都市中心であった附属地との関係の影響をうけているのであろう。瀋陽/奉天と異なり、長春/新京では、旧満鉄附属地が依然として都市中心の機能を維持している。
商埠地の中にある書店で、長春の現在の地図を購入することにした。とても大きな書店で、試験の参考書や英字の本等様々な種類の本が積み上げられており、日本の書店と似たような構造であった。ただ、日本の書店と違うことは、階ごとの入り口に荷物を預かる人が立っており、鞄を持った客はそこで預け、購入後返してもらう、という防犯対策が強固な点であった。
満鉄附属地時代の長春/新京における商埠地の特徴:
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ロシアがハルビンからダーリニー/大連に至る東清鉄道支線の権益を持っていた時代、ロシアは現長春駅北西部にあった寛城子駅前に附属地を形成していた。
私たちは、まず駅の北にまわり、長春/新京の発祥地である、ロシアの旧鉄道附属地の地区を訪ねた。そのなかにあった建造物が満洲国の統治下になり、どのような変化をしたのかを知るために、当時寛城子駅前に建っていた、かつての鉄道倶楽部を視察した。
越沢明『満州国の首都計画 東京の現在と未来を問う』(日本経済評論社 1997)p.38によると、当時この鉄道倶楽部は、寛城子駅前広場に面し、鉄道職員の社交場であった。現在では、医師や看護師が待機している24時間開院の病院(長春機車厰工医院)になっている。倶楽部から病院へ、と機能としては全く違うものに変わっている。中には医師や看護師の顔写真と紹介があるのは、日本の病院にない特徴である。
建物は当時のままの形状で、枠に細かい芸術が施されており、入口の扉が重厚感漂うものであったが、外壁は色が塗りなおされており、綺麗に改装されていた。この建物横の石碑には、ロシアの附属地には待合所、鉄道警察住居、給水塔があり、日本が侵攻した後、付近には学校や商店ができた、鉄道倶楽部は1896年に建てられ、現在は長春機車厰工医院として利用されている、鉄道倶楽部があった場所として長春市の重要物として保護されている、などのことが書かれている。歴史的重要物として、政府により保護されている「積極的な保存」がなされていた。
日露のフロンティアとして成立した長春/新京ロシアは1895-1899年に、東清鉄道の敷設・経営に関する一連の権益を中国から獲得し、ハルビンから分岐する東清鉄道南満支線を1901年に完成させた。その際、現在の長春駅の北西に位置する地点に寛城子駅を完成させた(越澤著, p.36)。 日露戦争の結果、東清鉄道支線の長春*旅順間を日本が獲得したが、具体的な鉄道分割地点をどこにするか、日露間でもめることになった。結果、満鉄の終点は現長春駅となり、寛城子は日露共有と決めたうえで、日本はロシアに寛城子の共有権を売却した(同, p.47)。こうして、長春駅が設置され。人や貨物の乗り換え地点となった長春/新京は、満洲における交通のかなめとなった。 |
旧鉄道倶楽部の次に、東清鉄道が通っていた、寛城子駅周辺の鉄路を視察した。
この地区は長春/新京の駅裏にあたっており、中国鉄道客車有限公司、長春市の熱量供給会社、寛城子付近のロータリー中心の水のタンクなど、一帯にはインフラ関係施設が多かった。また、「天利市場」と書かれた市場には、電化製品中心の小売店が並んでいて、郊外の比較的安価と思われる土地が商業機能に利用されていた。
満鉄時代の大連*長春/新京*ハルビン間鉄道路線と現在のものとでは、線路の位置が異なる。
日本は、南満洲鉄道として権益下に収めた長春/新京以南の線路の幅を東清鉄道の1524mmから、朝鮮および中国の他の鉄道と同じ1435mmに改軌した。これにより軌間が異なってしまったので、長春/新京‐寛城子間に複線を引き、長春/新京でスイッチバックして、寛城子からハルビン経由で移動した(下中図)。
満洲国になっても、長春/新京から北の鉄道はソ連が経営していた。だが、1937年に東清鉄道全線をソ連から買収して南満洲鉄道の下に置き、軌間の統一工事がなされた。これにより、新京駅での乗り換えがなくなった。軌間統一後、スイッチバックを解消するため、急曲線で駅に進入するようにルートが変更され、新京駅―寛城子駅間を含む東清鉄道の一部の鉄路は使われなくなった(下右図)。
私たちが視察した線路は、旧寛城子駅北部に位置する、満洲国時代のルート変更によって使われなくなった,ロシアの建設した東清鉄道の旧線である。現在は車両工場への引込線として使われているようで、非電化単線であった。当時の面影を残しているが、付近には草木が生え、柵で囲まれた線路沿いを人や自転車が通るなど、保存されているというよりもただ残っているだけの存在になってしまっていた。
東清鉄道の線路を視察した後、長春駅の駅裏の一帯を視察した。
四平/四平街と同じように、満鉄附属地は、駅の出入口に面する一方にのみ設けられ、駅裏は駅の出入口がなく、中国人地区となっていた。長春/新京も同じで、戦前、この辺りは、駅に近い立地を利用し、糧桟地区として、中国人が経営する食糧の卸売機能が集積していた。
現在は、古くなり煉瓦が崩れ落ちた社会主義住宅の建物の近辺に新築高層マンションが建設中であった。また、中国第一汽車集団公司の関連工場が多く並ぶことから分かるように、工業地区ともなっている。中国経済が発展するにつれ、長春/新京の発展が十分に進み、駅裏のあまり開発の進んでいなかった地域に、ジェントリフィケーションと工業化の波が及んできている。
日露戦争後、長春/新京が日露の境となり、長春駅は、軌間が異なるため生じた人の乗り換え・貨物の積み替え点となり、駅前に日本が設けた満鉄附属地では、経済発展が促された。
私たちは、駅の表側に戻り、建造物がだいぶ建て替えられた駅前ロータリーに面した一区画にある、旧ヤマトホテル(現春誼賓館)に入った。
ヤマトホテルは、日露のフロンティアの接点となった長春/新京において、日本の国力を誇示した。そこで使われたのが、オーストリアを中心として発展したヨーロッパ19世紀末芸術の特徴で、ハルビンにロシア人が持ち込んだアールヌヴォー様式である。日本はアールヌヴォー様式の要素を取り入れて、満鉄附属地随一の名門ホテルを建設した。
現在、春誼賓館は、機能はそのままに、瀋陽・大連の旧ヤマトホテルと同様、三つ星ホテルとなっている。駅前という交通の便と、歴史的重要物としてノスタルジーツーリズムを対象として積極的に保存されている。
敷地内には小さなロータリーがあり、朝の10時過ぎに、あまり広くはない敷地に所狭しと停まっている車をみると、このホテルの盛況ぶりが窺えた。やや外観は地味目であったが、内装は多くのシャンデリアがあるなど豪華な雰囲気であった。
ホテルに入ってすぐ右手に春誼賓館の概況を、日本人の「名誉総経理(社長)」という方が日本語で書いた表示板があった。
……1909年に建てられたウィーンセッション風の建物である、当ホテルは元満鉄が直接経営していたものである、宿泊者のうち偽満洲国の軍部政界の要員や社会の有名人が多かった、偽満洲国の執政者溥儀……関東軍司令官本庄繁などの高級官僚もかつては大和ホテルに泊ったこともある、また1945年より46年までの間このホテル中国共産党の長春地下支部がよく集った場所でも有り、1950年代から60年代にかけて……中国共産党と国の多くの指導者の権力者を迎えていたこともある。今は吉林省の高級ホテルとして国内外に良く知られている。 |
満鉄・満洲国時代の様子もふくめて、日本人の「名誉社長」に描写させているのは、日本のノスタルジーツーリストが訪問し、宿泊することを意識したものであろう。
1階の正面階段を挟んだ左右に会議室があり、ガイド氏によると、ここで重要な話し合いが行われたようだ。戦前は満鉄、戦後も共産党関係の会議が開かれたのであろう。正面階段の踊り場には当時から残る大きなステンドグラスがあり、満鉄が経営していた時から豪華な内装であったことを彷彿とさせる。
ホテルを出ると、一人のゼミ生が、ホテル前に、かつての満洲電信電話株式会社のマンホールがあることに気付いた。瀋陽/奉天の旧満鉄附属地でも、私たちは、旧奉天市の市章がついたマンホールの蓋を偶然発見した。だが、旧ヤマトホテルのまん前に満洲国時代の蓋があるというのは、いかにもわざとらしい。マンホールの蓋を代えること自体、あまりコストはかからないであろうから、ノスタルジーツーリストの為にわざと残しているのかもしれない。
しかし、保護され、看板が立てられている様子はなかった。満洲国の残影を求める日本人観光客が来た際に、ガイドがそれとなく紹介するのであろうか。紹介されれば、日本人観光客は「意外な大発見」に満足するだろう。かつての日本が遺した都市インフラの残骸を、ツーリストマネー獲得のため活用しているのだとしたら、中国のツーリストビジネスもなかなかしたたかである。
私たちは長春大街/人民大街を南下し、満鉄附属地を,児玉公園/勝利公園方面に向かった。
日本の手による長春/新京の都市発展は、2つの時期に分けられる。その第一は、南満州鉄道の北の終点で東清鉄道の接続駅として作られた長春駅の南に接して設けられた満鉄附属地建設の時期。そして、満洲国建国後、首都として附属地南部に作られた、膨大な都市計画の遺産である。この2つの境界が、児玉公園/勝利公園にあたる。
長春/新京の満鉄附属地は、駅前にロータリーを設置し、格子状の街路網を建設した上に、駅前から放射状の三本の大街を伸ばして、その先に広場を設置している(右の古地図を参照)。この構造は、瀋陽/奉天、撫順、そして一橋大学のある国立市と同様である。これは、西澤泰彦『図説 「満州」都市物語 ハルビン・大連・瀋陽』(河出書房新社 2006)p. 103によると、19世紀ヨーロッパの都市計画の手法とされている。
長春大街は、後に中央通と改称し、満洲国時代には中央通を南に延長した大同大街/人民大街が計画された。ソ連が占領した際、中央通と大同大街を併せてスターリン通りとさらに名称を変えた。現在では満洲国時代の中央通と大同大街を併せて人民大街と呼ばれている。首都計画として計画された部分に比べ、満鉄附属地部分は道路が狭いのが特徴である。附属地部分には、ヤマトホテル、満鉄支社、警察署、郵便局、神社、図書館など公共建築物が多く建っていた。
私たちは、満鉄時代に計画され、重要な機能を持っていた建造物が現在、どのような変化をしているのか視察した。
満鉄附属地時代の長春/新京の発展長春/新京は瀋陽に比べると都市規模が小さく、ロシアが東清鉄道敷設権を獲得した後も、大規模な都市計画はされなかった。しかし日露戦争後は、日露のフロンティアへと変貌した。日本は西洋に負けない国力を誇示する為、他の鉄道沿線の都市より重点的に都市開発に力を注いだ。大きな通り、広場、格子と放射状の街路を組み合わせたところに満鉄の都市計画の斬新さがあった。アールヌヴォー様式が取り込まれているヤマトホテル着工は、市街計画の初期段階に行われた(西澤著, p.103)。ロシアとの対抗を意識しつつ力を注いだ結果、長春/新京の満鉄時代の建築物は、当時の日本の大都市の建築物より水準が高くなっている。 |
駅前広場に面して満鉄支社が建っていたが、これは現在瀋陽鉄路局長春分局となっており、建物自体は少し改装されているものの当時のものをそのまま使っている。日本敗戦後も、鉄道が重要な役割を担っていたことは変わらないので、そのまま接収して利用したのであろう。
現在の人民大街は、老若男女、多くの人が行き交っている通りであり、大きなデパートや新しいアーケードができ、飲み物・新聞などを売っている露店が立ち並んでいる。かつての警察署は大きな商業施設となってしまったものの、満鉄附属地時代の建物で残っているものはいぜん多い。
○中央郵便局(現中央郵便局)
まず注目すべきは、向かいの、かつての中央郵便局である。現在は寛城郵政支局として現地の郵便局となっている。外壁は鮮やかなエメラルドグリーンに塗りなおされており、内部は、窓口が多く並び、電光掲示板があり、綺麗に改装されている。土曜の10時30分の時点で利用客は多く、賑わっていた。しっかりとした建造物であることから、当時の郵便局をそのまま接収して機能が同じものとして利用している。
中国の郵便局は土日を含めた毎日営業で、営業時間帯はどの日も同じだが,夏季は8:30-17:30、冬季は8:30-17:00と季節によってだけ違う。日本人にとっては珍しい特徴であった。
○新京神社(現吉林省人民政府機関第一幼稚園)
横断歩道を渡り、道路向かいの長春大街/人民大街をさらに南下すると、すぐ旧新京神社のあった所にたどり着く。津田良樹, 中島三千男, 堀内寛晃, 尚峰「旧満洲国の「満鉄付属地神社」跡地調査からみた神社の様相」(『人類文化研究のための非文字資料の体系化』4号, 2007)p. 217によると、新京神社は、満鉄附属地時代は「長春神社」という名で、長春/新京に住む日本人向けの神社であったが、満洲国建国後、新京神社と名を改め、国都の神社として大きな役割を担った。
現在、旧新京神社の敷地は、通りに面したところが小売店となっている。その商店の種類には一貫性が見られない。残り半分の敷地は、長春大街/人民大街沿いに、現在は、吉林省人民政府機関第一幼稚園、その裏手に長春市政府第二幼稚園となっている。土曜日の為、園内には人のいる気配はなく、門は閉まっていたため、残念ながら敷地内の視察はできなかった。外から見ると、第一幼稚園の門から建物までの100m位は、左右に松の木が植林された神社の参道の様なものがあり、これは新京神社の木をそのまま再利用したと思われる。また、今回視察していないが、第二幼稚園の方は、上掲論文p.219によると、2006年8月の段階で新京神社の拝殿がまだ幼稚園舎として利用されていたようである。建造物を消極的に一部保存し、再利用している。
旧新京神社が幼稚園となった経緯は、同論文p.218によると、新京神社の建物が、戦後すぐ、戦災孤児を保護する施設に転用されていたことと関係があるようだ。ソ連侵攻によって親を殺されたり、親が帰国してしまった子供たちのために急遽、使われなくなった拝殿が児童収容施設として活用されたが、その際に用いた備品や人員を用いて、恒久的な幼稚園にしたのであろう。
○児玉公園(現勝利公園)
さらに進むと、満鉄附属地の計画の一環として造られた児玉公園/勝利公園に達する。「シベリア抑留と吾が人生」(高橋吉郎著, 平和祈念展示資料館サイト内)p.176によると、当時、児玉源太郎の忠魂碑があったようだ。
イギリスが中国人の公園利用を排他していたのとは異なり、満洲国では中国人の公園利用を排他することはなかった。越沢著p.163によると、1940年時における児玉公園の日本人と中国人の利用者比率は二対一であったようだ。名称を勝利公園と改名し、児玉源太郎の忠魂碑に代わって巨大な毛沢東像を置いている所に、中国側の意図が汲み取れる。
公園内には、子供向けのアトラクションがあり、人も多かった。その点、公園としての機能は受け継がれている。
人民大街を駅から勝利公園まで都市を観察して、気付いたことが二点ある。
一つ目は、通りに面した建物の高さがバラバラであることだ。越沢著pp.78,144-145によると、満鉄時代・満州国時代には高度制限を行っていた。だが、日本が撤退した後に建築規制が無くなり、高さがバラバラになったのであろう。
二つ目は、駅から離れるほど日本の建物が多く残っているということである。これは、駅前周辺の建物は機会費用が高く、建造物を破壊するコストを回収できるが、駅から離れた地域は機会費用が小さいため壊して建て直すことの経済的有用性が乏しい。また、社会主義住宅などの集団住居と比べて一軒家の日本建築は、特権階層などに重宝されることも、理由として挙げられよう。
次に私たちは、旧商埠地に移り、溥儀の仮王宮を視察した。ここは、1962年に博物館となった後、1981年に吉林省によって全国優秀愛国主義教育基地に指定された。入り口には「国家AAAAA指定偽満皇宮博物館」と書かれた看板がかかっていた。
私たちは、博物館を視察しながら、中国がそれをどういう意図で造っているのか、考察した。
王家の紋章が刻まれた門を入るとすぐの所に、「偽満州国皇宮」とかかれた石碑があり、中国語で「日本の帝国主義が中国に侵略し……」という内容が書かれていて、日本に対する敵愾心をあらわにしている。入る前にガイド氏に、「博物館内部では日本語で話さないように」との指示を受けたため、私たちは、博物館視察中は英語で会話や質問をすることになり、いやが上にも緊張感が高まった。中国にとって、溥儀の問題は、日中関係における非常にデリケートなものであることが窺えた。
博物館への道の途中にある時計は、溥儀が最後に王宮を出た9時10分を指して止まっていた。だが、地震や原爆が襲ったのではないから、溥儀が王宮を出て行っただけで時計が止まるはずはない。このことから、この博物館には、いろいろな演出が仕掛けられていることが予想された。
館内は、中国語、英語、日本語の三ヶ国語で表示されており、中国人、日本の近代史に興味のある観光客のみならず、欧米の客も来ている。だがやはり、中国人客がほとんどで、ガイドの説明を受けながら順路を周っている人たちが多かった。
まず、20世紀初頭にたてられ、清王朝の祖業回復を忘れないために「緝煕楼」と名付けられた、溥儀と皇妃の婉容と妃の譚玉齢の住居に入った。彼は満洲国皇帝となって以降、日本の敗戦まで、ほとんどここで居住していた。内装は豪華で、至る所に金が散りばめられ、細部に芸術も施されており、床は一面赤絨毯など当時の日本の最高技術が施されていた。
楼内には、溥儀の寝室や散髪部屋、浴室、溥儀と関東軍司令官が執務室で向かい合っている様子を再現した部屋、婉容、譚玉齢それぞれの寝室などある。一つ一つの部屋は10畳位とあまり広くなく、それぞれの部屋にはそれぞれの機能に関係する家具しか置いていなかった。建物・内装はとても優れたものであったが、皇帝の住まいとしては生活感が感じられないものであった。溥儀に関してあまり一般には知られていない細かい情報も多かった。
建物内順路の最後の方には、フリー伝言スペースがあり、そこには「中日友好」という内容の言葉も見受けられたが、中国語で日本に対する敵対心を感じられる言葉もいくつか書かれていた。その中には、「2030年に中国が日本の東京に中国の皇宮を建設することを望む」という伝言もあり、日本と比較し相対的に大国となりつつある中国人の自信と覇権欲がにじみでている。
次に、溥儀の仕事場である「勤民楼」に入った。その中の勤民殿で、溥儀は儀式や参内謁見、任命状の授与などを行い、日本や満洲国高官来賓と謁見した。順路を進むと、西便殿の日本語説明書きに「……溥儀は一時的に『政務に勤めよう』と決心し、清王朝の祖業の回復のために、毎日、ここで、政務に勤め勉強をしていたが、偽満州国がますます植民地化されていくにつれて、次第に自分が掛け値なしの傀儡だと気づいた。……」とあった。また、勤民楼内部には、関東軍高級参謀である吉岡安直の事務室があり、溥儀は業務中、常に監視されていた、と書かれていた。
最後に、溥儀が復活を願っていた清朝時代の伝統的な芸術をあしらった衣?や道具、絵などを展示している記念館があった。この溥儀博物館には中曽根元首相が訪問したときの写真が収められており、他に中国の著名人達の訪問が写真に記録されていた。
この博物館には、溥儀と満洲国を否定し、さらには日本を批判する内容が多く含まれている。溥儀を「満州国の操り人形」と表していることや、西便殿内にある説明書きの中に「…次第に自分が掛け値なしの傀儡だと気づいた。」という説明書きから、このことが感じ取れる。これは、中国政府が現在公式にとっている満洲国と溥儀に関する歴史観を、実際に溥儀が居住し執務した仮王宮という場を用いることで、より「客観化」して示そうとするものといえるであろう。
では、溥儀は実際にはどのような考えを持って満洲国の皇帝を務めていたのだろうか。溥儀は、辛亥革命で倒された清朝の再興を願っていた。その為、日本の経済力・技術力を利用して中華民国に勝る国家の建設を目ざしていた。つまり、日本は溥儀を傀儡として利用したが、溥儀も日本を清朝のために利用しようとしたのである。そうした意味で、溥儀と日本とには、ある種のwin-winの関係が存在したといえる。このことは、溥儀の書いた自伝を訳した、小野忍、野原四郎監修、新島敦良、丸山昇訳『わが半生』下巻(大安発行 1965)p.6に、「私は現在すでに一国の元首なのだから、今後資本ができれば、いっそう日本と相談しやすくなるわけである。……「執政」になるのを上満に思わなかったばかりでなく『執政』の地位を『皇帝の玉座』に通ずる階段とさえみなしたのだった。」という言葉からも感じられる。溥儀は、日本の意図を利用しつつ、ころあいをみて日本から自立し、実質的な復辟を終局的に達成しようとしていたのであろう。だからこそ中華人民共和国は、このような清朝の亡霊を封じるため、溥儀が日本の傀儡であるという一面のみを強調し、戦後、「満洲」という地域名すらも徹底的に抹殺した。
この博物館は、そのような共産党官許の歴史観を表明する場であり、それゆえに、愛国主義教育基地として、国内に向けて中国人の愛国意識を育む機能を的確に果たしているのである。
博物館視察後、私たちは午後二時前に遅めの昼食をとった。
食事の場所は一般中国人大衆向けの店で、私たちの他に4組の現地客がいた。ガラスケース越しに料理を見て、皿に盛りたいものを注文して盛ってもらう形式であり、会計は食後に店員が料金を計算し、店を出るときに支払う、アメリカのカフェテリアのようなシステムであった。
ところが、私たちが食事を終えたころ、驚くことが起こった。まだ客である私たちがいるのに、従業員たちが続々と厨房から出てきて、まかないを入れた銀ボウルを片手に客席を占め、自分たちの食事を始めたのである。完全に店全体が昼休憩に入ってしまった。
このことから、今の中国に、社会主義の労働システムの名残が、依然として残っていることが感じ取れた。労働者が客席の食卓を利用していることは、顧客と労働者を空間的に切り離す資本主義とは異なり、顧客と労働者が同等であり、空間を共有する場合があることを表している。さらに、同じ時間に労働者全員が休憩を同じ様に取ることも、労働者が皆同等であることを表す。このような光景をホテルで見かけることはなかったが、現地人向け飲食店には、社会主義が残っているのである。市場経済を現在の中国は掲げているが、それは単純な市場原理主義と同一視しできないことが、こうしたことから垣間みえてくる。
昼食後、私たちは、満洲国の首都として計画され建設された都市区画の巡検に向かった。
旧満鉄附属地の長春大街視察の箇所で述べたように、大同大街/人民大街は満洲国時代に計画された都市軸となる街路であり、その途中に大同広場が計画された。大同大街と大同広場には、満洲国国都の重要な機能を持った建造物が多く並んでいた。私たちは、大同広場/人民広場から勝利公園南に隣接している関東軍総司令部(現共産党吉林省委員会)へ北上して、大同大街沿いの市街の建造環境の変化を視察した。
満州国国都となった長春/新京満州事変勃発後、満洲全土が関東軍の支配下にはいり、満洲国が建国されると、国都には人口13万人という中都市であった長春/新京が選ばれた。その理由は、@ハルビン、奉天にはロシアや張学良政権の有力者が以前残っていること。A長春/新京が満州のほぼ中心に位置していること。B地価が安く、都市計画がしやすいことが挙げられる(越沢著, pp.90,91)。満鉄時代商業の中心として発展した長春/新京が、さらに政治の中心に変容した。 首都として建設された長春/新京には、都市中心が2つあった。それは、大同広場周辺地区と、王宮予定地・順天大街地区である。大同大街とその先にある大同広場には、関東局や興銀、公安、中央銀行など、長春/新京の都市行政ならびに満洲経済の中心をなす建物が集まった。これに対し、順天大街には、国務院など国家スケールの政治機能を持つ建物が集められた。 |
満洲国時代、大同広場は、首都行政ならびに経済機能の核として計画された。これが現在どう変化しているか考察する。
まず、大同広場中央に、高い木々の中からそびえ立つ戦闘機のモニュメントが目に入る。瀋陽の広場は毛沢東像を掲げ、瀋陽駅の方角を像が向いているのに対し、こちらはソ連の戦闘機を掲げ、このモニュメントも駅や満鉄附属地の方角を向いている。ソ連の軍事力が長春の現在に貢献していることを示す、意図的な配置である。
広場を囲む建物は、主要道路によって6つの区画に仕切られている。大同大街から反時計回りに、満洲国時代の土地利用と、現在の土地利用を比較して列挙すると、次のようになる:
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下の空き地二つは、満洲国時代に都心機能を持つ施設を配置しようとしたが、達成以前に満洲国が崩壊してしまったのだろうか、戦前の地図には空欄となっており、現在は市民向けの施設が建っていた。ここに、中心性ある施設を立地させようという中国側の意図は感じ取れない。広場の利便性を利用して教育機関や労働者の娯楽施設を作ったのであろう。すなわち、戦後の中国は、人民広場と改称した大同広場に、特別の場所の意味を与えなかったことがわかる。
吉林省賓館は、建築様式が満洲国時代の建造物に似ており、その点で後に記述する吉林省図書館と同様である。一方、満州中央銀行総行、電信電話株式会社、首都警察局、新京特別市公署は、満洲国時代の建造物で、いまは中国の文化財として保護されており、しかも満洲国当時の機能を引き継いでいる。しかし、電信電話株式会社に着目すると、鉄道と電信が一刻の空間統合の根幹を担っていた時代の電信電話株式会社と現在のChina Unicomは、機能的に似ていても、業務内容が全く異なっている。満洲国時代に空き地であった場所には、現在、経済や行政機能を持っている施設が入っていない。このことから中国が、満洲国時代の建物をそのままに、似たような施設を入れただけで、広場全体としての機能を考えてはいないことが分かる。
(左: 中国人民銀行(旧満州中央銀行総行)、中: 長春市公安局(旧首都警察局)、右: 吉林省賓館(旧空き地))
長春/新京の首都が計画された際、大同広場には中心的機能が非常に強い建造物が立ち並んだ。それは、満洲国が永続的に続くことを想定していたからである。しかし、満洲国が崩壊した後の首都は北京であり、全国的な都市体系のなかで長春/新京の中心性は大幅に低下した。その為、大同広場には中心性の無い雑多な建造物が増えたのである。
次に私たちは、大同大街/人民大街を北上し、大同広場/人民広場の北側地区で、満洲国時代の重要な建物が現在どのようになったのか確認した:
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このように、大同大街/人民大街は、満洲国時代、日本と結びついた経済的・軍事的機能の強い建造物が集積した地区であった。満洲における日本の経済権益を日本軍が護るという都市空間の編成が読み取れる。
だが、中華人民共和国となってから、長春/新京は首都でなくなり、都市自体の中心性が低下したため、この地区でも広域的な経済機能は縮小してしまった。関東軍総司令部と関東局があった建造物をそれぞれ共産党吉林省委員会と吉林省政府が利用し、その付近に吉林省と長春市関係の施設を入れることで、一時期は吉林省ならびに長春市の行政の中心地となった。だが現在では、かつての関東局を使っていた吉林省政府も、かつての康徳会館を使っていた長春市人民政府も移転してしまい、この地区の行政的機能は薄れつつある。かつての吉林省政府の建物は放置されたまま再開発を待つおもむきであり、康徳会館は、当時の特徴的な塔が撤去され、オフィスビルとしてデベロッパーが再開発を始める様子がうかがえた。
以上の全体的な変化をふまえつつ、この地区にある5つの主な建造物の変化について述べる。
まず、満洲国時代に東洋拓殖であった建造物について。東洋拓殖は主に朝鮮の土地を搾取するために創設された特殊国策会社であるが、現在は、1979年に設立された多国籍企業グループのCITICの関連会社であるCITIC中信建設証券が建っており、機能は全く変化している。(CITICグループHP 集団紹介)東洋拓殖という満鉄に次ぐ日本の大規模国策会社の場所に、中国大手グループが進出しているのは、主要街路に面し、敷地面積も広い場所であるため、立地的に好ましかったからだと思われる。
次に満洲国時代の海上会館について。これは、1939年に建てられた新京海上火災保険株式会社(現東京海上日動火災保険の子会社)の建物である。長春市の重要文化財として積極的に保存されている。越沢著p.195によると、当時は地上5階建てであったが、現在は6階建ての長春市中心医院となっており、上掲ページの写真 と比較すると、少し改装されている(右上の写真参照)。長春市によって重要文化財として積極的に保存されていて、入口の扉周辺と、土台となる一階部分は、灰色の荘厳な雰囲気が残っているが、二階以上は白いタイルで補修され、統一感がなくなってしまっている。満洲国時代の機能と現在の機能とでは、ここでも連続性が見られない。
第三に満洲国時代、日本興業銀行であった建造物について。日本興業銀行は現みずほコーポレート銀行の前身で、長期事業資金を供給する銀行であったため、国策に関わりがあり、満洲国でも重要な金融機関であった。現在は、南方測絵長春分公司という地図制作会社に変わっている。建物に書かれた「冨民強省」というスローガンは、この企業と省政府との深い関係を窺わせる。かつては、この向かいの区画に、吉林省政府の施設があった。この吉林省政府と隣の共産党吉林省委員会を中心として、かつてこの地区は、中国吉林省の行政的な中心となっていた。
第四に、満州国時代、関東軍総司令部であった、日本の城郭建築を模した巨大な建造物について。これは現在、共産党吉林省委員会になっている。今まで長春/新京で視察した他の建造物に増して荘厳なものであった。城は正面に一番大きなもの、少し離れて左右にも大きめの城があ
り、共産党の赤い星のような印は建物に付けられていない。保存状態は良く、満洲国時代の写真 と比べても、建物にほとんど違いは見られない(西澤著, p.110、右上の写真参照)。関東軍の、かつて「泣く子も黙る」と言われた権威のイメージを今も継続させ、この建物にあえて手を加えずそのまま利用することで、満洲国時代に建物に付着した「統治権力を畏怖させる」という共同主観を引き継ぎ、共産党権力を市民におしかぶせるものとなっている。共産党施設という点では撫順の永安路のものと類似しているが、永安路のものとは違い、視察の際、共産党施設の門の前には制?姿の門番が厳重に周囲を警戒しており、私たちが門の前を通り、共産党施設の写真を撮ろうとしたところ、門番に中国語で怒鳴られてしまった。通り向かいに渡って共産党施設を見ている時も常にこちらを監視され、私たちも、十分に畏怖の感情を抱いた。
第五に、満州国時代の、大同自治会館について。共産党吉林省委員会の正面に位置するこの建物は、現在、吉林省統計局となっている。戦後、この地区を吉林省の行政中心とするなかで置かれたのであろう。保護されているわけではない消極的保存であり、機能も変化してしまっている。
5つの建造物の変化で分かるように、かつての満洲国首都に日本が建てた建造物自体は、いまも重要な文化財として積極的に保存されているが、機能は変化しており、中華人民共和国のもとで一度は省の行政的な中心となったものの、その後機能も分散し、高い中心性が薄れてしまっていることが分かる。
次に私たちは、首都の西南部に設けられた、溥儀の帝宮予定地と満洲国の官庁街に向かった。
帝宮前の広場(現文化広場)はほぼ正方形の敷地であり、北側には、本格的な溥儀の宮殿となるはずだった巨大な建物がある。
越沢著p.166によると、帝宮予定地はこの宮殿の北側奥にも広がり、北側に庭と正殿、南側に前庭と政殿宮殿が造られる予定であった(右写真参照)。しかし現在は、政殿予定地より北側は広場敷地外となり、南側の前庭予定地周辺を文化広場として利用している。政殿は溥儀の新王宮として建設されはじめたが、第二次世界大戦が激化した際、資源・資金上足になり、未完のまま中
止された。だが、満洲国崩壊後も中国によって工事が続行され、現在は長春地質学院単科大学が使用している。北側の庭ができる予定だった所には現在、アパートが建ち並んでいた。これに関して、越沢著p.168では、文化大革命の際に軍がこの用地に軍人アパート群を建てたことが書かれている。そのまま接収してアパート群として利用しているのであろう。
広場は一面芝生で、花も飾られている。東西南北の方角それぞれの入口に母子像があった。ガイド氏の話によると、この母子像は春夏秋冬それぞれの季節を表すという。他の視察した広場に比べて人は少なく、端の方にバスケットゴールが多くある以外に遊具はなく、わずかに凧を操っている人がいるだけであった。
中国はなぜ、宮廷前の庭をつぶさず、現在も広場にしているのだろうか。仮説として、3つが考えられる。
一つ目は、庭を維持する機会費用が低いことである。この付近は都市の経済的中心地から離れている為、民間が他の土地利用をしても収益は上がりにくいため、買い手がつかず、そのまま広場としている可能性がある。
二つ目は、日本人が行った都市計画を尊重している、ということである。しかし、日本人の満洲支配を否定する中国にとって、日本人がつくった首都計画の象徴である広場を引き継ぐとしたら、それはどのような動機なのか、さらに説明が必要となる。
三つ目は、社会主義パレード用地という可能性である。満洲国の帝宮の前で共産党がパレードを行うことは日本帝国主義の批判になるので、社会主義パレードの場として大変ふさわしい。このために積極的に利用している、という可能性である。
「関東軍の本拠+日本の経済権益」と、「満洲国皇帝の本拠+満洲国の行政機構」とは、都市計画において、はっきり空間的に分けられていた。後者の、この宮殿予定地から真っ直ぐ南に延びる順天大街/新民大街は、国政機能を持つ建造物が多く並んで、溥儀が皇帝として満洲国の国政を常に総攬することを象徴する都市空間となるはずだった。
もちろん、当時、この行政機構の実権を握っていたのは日本人官僚たちであった。しかし、もし満洲国がもっと長く続いていたなら、博物館の節で述べた溥儀の満洲国との関わり方からいって、溥儀はしだいに自立要求を強め、日本と対立を深めて、ある時点で日本人官僚の追い出しと満洲国の実権把握を図ったかもしれない。そのとき、この官庁街は「溥儀の空間・満洲の空間」となり、関東軍の本拠を中心とする「日本の空間」との間で、民族的支配者と被支配者の対立が、都市空間のなかで可視的なものに転化していた、という可能性も考えられる。
私たちは、文化広場を視察した後、この旧官庁街を徒歩で南下し、安民広場(現新民広場)まで視察した。
順天大街/新民大街は、現在でもその広い幅員がそのまま使われており、他の幹線道路に比べて通行車の少ない落ち着いた雰囲気がある。
満洲国の官庁の建物や敷地が、現在どのように使われているか、以下に記載する:
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このように、この地区には大学や図書館が並び、経済的にも行政的にも中心的機能を持たないものとなっている。これはいうまでもなく、満洲国崩壊後、長春/新京は首都でなくなり、国政の中心は北京に移ったため、順天大街/新民大街に政治機能を持った建造物の必要が無くなったためである。
私たちはまず、かつての国務院である吉林大学敷地内を視察した。吉林大学は当時の国務院と全く見た目は変わらず、日本の国会議事堂と似た姿を示している(西澤著, p.112参照)。壁面は改修はされておらず、荒れた雰囲気であった。屋根にはイルミネーションが設置され、夜間目立つように装飾されていた。
正門正面には、べチューン(Dr. Norman Bethune 1890*1939)の像があった。べチューンはカナダ共産党員の外科医で、身を犠牲にして抗日戦争を闘う中国共産党八路軍兵士に医療活動をし、中国で没した英雄として中国で知られている。中は病院になっていて、医学部の学生はこのキャンパス内に3000〜4000人いるようだ。
次に、満洲国時代の治安部、司法部、経済部、交通部、という政治的機能を持つ建築物について。これらは全て、吉林大学の施設となっている。また、国務院と同様、治安部庁舎、経済部庁舎も当時の建物(西澤著, pp. 113,114参照)は積極的に保存されている。この4つの建造物はどれも、洋風の建物に日本の城郭のような屋根を載せている帝冠様式が特徴的である。正面から見たときに、高い中央部分の屋根が、威厳ある印象を与えている。
帝冠様式をめぐる論争長春/新京の官庁建築のような、和風の屋根に洋風ビルを組み合わせる建築様式は「帝冠様式」と呼ばれ、戦後から現在にかけてその政治的意図について論争が繰り広げられてきた。 西山夘三は、戦前に天皇制的ファシズムに迎合した建築が現れたとして、建築を政治体制と関連付けて評価した(西山卯三著『現代の建築』岩波新書, 1956, pp.155-157)。その後、西山のエピゴーネンたちにより、帝冠様式=「日本軍国ファシズムに屈?した建築」 とみなされ、一時期定説化したのである(「第5章 (付論)帝冠様式について」p.271)。 一方で、上記の、帝冠様式をファシズム建築とする説に反対する学者もいる。その代表例は稲垣栄三である。ナチ・ドイツは建築にまで、反政府的かどうかという統制を厳しく行ったのに対し、日本の軍部の場合、建築にまでは統制を行うことが事実上できなかったことが指摘されている(稲垣栄三著『日本の近代建築―その成立過程』日本経済評論社, 1959, pp.355-357)。 また、越沢明は、軍国主義・ファシズム建築という節に対して二つの点から異を唱えている。第一は「帝冠様式の建築は満州では内地より大々的に採用されている」という点である。2番目は「帝冠様式と同様の中国でも採用されている」、つまり敵対する関係である戦前の日本と中国に共通の様式があることを説明できないという点である(越沢著, p.209)。 以上の理由から、ファシズム建築であるとは言えないとしている。 このように、帝冠様式については、ファシズム建築であるのか、そうではないのか、大きく2つの意見に分かれている。 |
吉林大学は1946年に創設された。中華人民共和国となってから官庁が上要となり、り、かつ官庁街の閑静な雰囲気が大学に適しているということから、満洲国崩壊後すぐこの建築を利用したのであろう。国務院治安部、司法部、経済部、交通部は、それぞれ互いに接しているわけではなく、少し離れた区画にあるが、満洲国時代の官庁建造物のみが現在吉林大学になっている。
第三に、順天公園は、満洲国時代、かつて巨大な敷地面積を持ち、市民の憩いの場であった。越沢著p.139によると、小河川を堰き止めた人口湖を保有する親水公園として順天公園は造られた。現在では朝陽公園と名称を変えて一部は残っているものの、荒れ果てており、かつて公園であった他の敷地は、現在吉林省共産党幹部の為の公共施設となっている。下に記す南湖公園は今もまだ残っているのに対し順天公園がこのように廃れてしまった理由として考えられるのは、戦後の中国が中心性の薄れた順天大街付近に二つも巨大な公園をおく必要性を感じず、非常時の水確保という特性を持ち、かつ三つの大街に囲まれる立地の良さを持つ南湖公園のみを優先して保存し、順天公園は放置したのではないだろうか。
第四に、司法部の南に接する区画は、満洲国時代、空地であったが、現在では長春日報の建物になっている。長春日報の建物は満州国時代の建物ではなく、最近になって建設されたが、帝冠様式にあえて似せた現代的な造りとなっていることが興味深い。
その南の区画には、吉林省図書館が建っている。この建物も、戦後に中華人民共和国が建てたものであるが、帝冠様式で、満洲国時代の官庁建築にそっくりである。もし、この様式が「日本軍国ファシズムに屈?した建築」だったならば、中華人民共和国がこのような建築物を自らすすんで建てることは決してなかっただろう。
このように、順天大街/新民大街は、満洲国時代の官庁建築ないしその様式が引き継がれることによって、この大街が街並みとしての統一感を醸しだしている。
満洲国の官庁機能は、順天大街/新民大街を南下し、安民広場/新民広場の地区にまで広がっていた。そこには、やはり帝冠様式の、満洲国時代、国の法を司っていた総合法衙であった、中国人民解放軍第461医院などがあった。
安民広場/新民広場の南の、南湖公園入口には、長春解放記念碑が立っている。ここは満洲国時代、米英に対する宣戦記念塔用地であった。解放記念碑には、側面に1948.10.19と彫られており、戦後、共産党が、それまで長春/新京を支配していた国民党勢力を追いだして長春/新京を占領した日を石碑で記念している。あえて日本が宣戦記念塔用地として計画していた所を中国共産党が利用していることに、日本軍国主義に対する批判の意味を読み取ることは容易だろう。
私たちはその後、南湖公園を視察した。満洲国時代、南湖公園は当時の長春/新京における最大の公園であった。順天公園と異なるのは、親水公園でありながら、非常水源の確保という非常時に都市を防衛する機能を持っていたことである。
現在の南湖公園には、多くの人が老若男女問わず訪れる、多目的公園である。満洲国時代の園内の建物は取り壊され、それに代って有料のアトラクションが、現在では多数設置されている。街の美観や非常時の水源を目的としていた南湖公園に商業的機能が加わり、遊園地のようになってきている。だが、商業的施設は、あまり公園の雰囲気に馴染まないもののように感じた。
南湖公園をでると、そこでまさに建築中の「南湖一號」というマンション群に出会った。そこにも、帝冠様式が用いられている。看板の「號」にあえて旧字体が使ってあって、中華人民共和国以前の歴史的伝統に遡ることをマンションのセールスポイントにしているようだ。順天大街/新民大街沿いではないこの現代のマンションにも帝冠様式が使われていることは、上述の吉林省図書館でも述べたように、満洲国が導入した建築様式が、特に社会的抵抗なく、現在の長春全体の建築様式のモチーフとなって定着していることを表している。
日本の満洲支配は、都市建造環境だけでなく、文化面でもつよく表明されていた。私たちは、そのことを知るため、満洲映画協会(現東北電影公司)に向かった。
満洲国時代、満洲映画協会は、日本が作った特殊国策会社であり、「五族協和」というイデオロギーを中国人に向けてプロパガンダする重要な役割を担っていた。それが、統治者が変化した後、どのような変化をしたのか視察した。
満洲映画協会満洲映画協会(満映)は、1937年に設立した、満州国50%、満鉄50%の出資比率である特殊国策会社であった。植民地主義の思想と文化の宣伝に努め、「王道楽土」、「五族協和」を主張する目的があった。設立時のメンバー10名は全て官僚と満鉄関係者で固めてられており(山口猛『幻のキネマ 満映』(平凡社 1989年)p40)、満州国が映画の持つ大衆性を重要視していたことがうかがえる。 国策会社でありながら経営はあまりうまく進まず、汚職や内部の腐敗が進んでいた(大場さやか著「満映論」)。その状況下で、二代目理事長に就任したのが甘粕正彦であった。 甘粕は軍人として、エリートコースを歩むかに思われていた。しかし、膝のケガが原因で、周囲の評判が良くない役職である憲兵にならざるを得なくなった(佐野眞一著『甘粕正彦 乱心の曠野』新潮文庫, 2010, p16)。そして、関東大震災の混乱の際、無政府主義者の大杉栄らを殺したとされる「大杉事件」を起こし、軍法会議にかけられ、懲役10年の刑を受けた人物として有名である(同, pp.74-122,132)。結果として、約3年間刑務所で過ごし、出所後はフランス留学を経て、満洲へと移住することになった(同, pp.211, 261, 308)。そして、満洲の地で暗躍したのである。 甘粕は就任早々満映の大幅な人員整理を行い、さらに政府と交渉し、資本金の大幅増額をも取り付けた。また、国策映画だけではなく、大衆に喜ばれるようなエンターテイメント性のある作品作りをし、中国人の監督、脚本家、技術者を起用した(大場著)。 しかし、日本が敗戦して満洲国も崩壊し、満映も崩壊することになった。敗戦が決定すると、甘粕は自殺をほのめかすようになり、1945年8月20日、満映の理事長室で?毒自殺を決行した(佐野著, pp.510-513)。 日本敗戦後、満映のスタジオは東北電影公司に手に渡り、引き続き使用された。その際、内田吐夢など当時著名だった映画監督を含む日本人技術者が、多く東北電影公司に残って、中国人に技術指導をした(胡昶+古泉『満映 国策映画の諸相』p257)。さらに、長春のスタジオで働いていたスタッフは、共産党の指示で北京や上海へと移って、プロパガンダ映画の製作に携わることになった(大場著)。つまり、満洲を起点に共産党のプロパガンダ映画が、中国全土へと広がる結果になったのである。 こうして満映から獲得した映画技術で、中国共産党の文化戦線は強化され、朝鮮戦争を題材とした反米映画「上甘嶺」など、中国映画史に残る作品がつくられていった。中国の社会主義建設に満洲国の遺産が寄与したことは、既に学んだ鞍山製鉄所の技術移転と同じ過程である。 |
長春電影制片廠の建物は2002年に文化財として保護されたが、もともと満洲国当時の満映撮影所の写真と比べてもほとんど違いはなく、かつての建物をそのまま利用して、中国共産党が数々のプロパガンダ映画製作を行って来たことがわかる。建物自体は綺麗とは言えず、中央の広場の床や柱のコンクリートは欠け、崩れていた。
広場の中央には、大きな毛沢東像が建っている。この毛沢東像は、満洲国崩壊によって国策会社であった満映が中国のものになったことを表しているのだろう。
また、周囲には広告が並んでおり、そこには、テーマパークの様な絵と、キャラクターが描かれていた。映画と商業施設を組み合わせることによって、ユニバーサルスタジオの中国版のような施設を作り、儲けようとする計画が以前はあったのであろう。しかし、その看板は色あせており、現在の建物の保存状態や中央の広場が破?している所から推測すると、その計画は断念されたのではないだろうか。
建物横には長春電影制片廠に訪れた中国の偉人たちの名と写真がショーウィンドー内に多く飾られていて、長春電影制片廠の国内の有名さを物語っている。
さらに、庭にはいくつかの彫刻が置かれている。台座には戦後長春で製作された映画名と、その上に映画の登場人物の彫像がある。
例えば、「白毛女」の登場人物である、粗末な?を着た少女の彫刻が置かれている。「白毛女」は1950年に製作された映画で、悪徳地主に犯され、山に逃げた後、精神的ショックで白髪になり、村人たちから恐れられてしまう少女・喜児の話である。彼女の婚約者であった大春は人民解放軍に依頼して、村を解放する。そして喜児により、悪徳地主の悪事が暴かれ、消し去られることで、村が平和になり、喜児の髪も黒に戻るというハッピーエンドなストーリーである(四方田犬彦、晏?編『ポスト満洲映画論』人文書院, 2010, pp.50,52)。共産主義下ならば、人々は皆幸せに過ごせるというメッセージが込められた映画に仕上がっている。
その他、共産主義のために自らを犠牲にして戦った人物をたたえる映画「董存瑞」や「英雄児女」の彫像もある。両方とも、兵士の像で、手には爆薬や砲弾を抱えている。
1955年に製作された「董存瑞」は、実在した人物を取り上げている。董存瑞は、国共内戦中の1948年、爆薬を抱えたまま、橋に突撃して爆破し、国民党軍の侵攻を阻止した人物として、英雄視されている(新華網ニュース「董存瑞」)。
「英雄児女」は1964年に作成された映画で、朝鮮戦争に参加した人民解放軍のストーリーである。王成が爆弾を持ちながら、敵軍に向かって突撃するシーンが人々を魅了したという(チャイナネット『英雄児女』)。
どの映画も中国共産党のプロパガンダ映画で、共産党が中国全土の覇権を握ったことをたたえるものであったり、共産党が支配することの正当性を訴えかけたりするものである。そして、それらの映画の登場人物を彫像とすることで、この場所に来る人々にそういう類のメッセージを伝えようとしたのであろう。
長春電影制片廠を出ると、路面電車の線路が見えた。越沢著p.169 によると、新京市はバスを主な交通手段としたものの、将来は大阪市から技術導入して地下鉄建設の計画をすすめていた。だが、戦争により地下鉄が実現できなくなると、その代用として1941年路面電車の敷設を決定した。しかし、美観を尊重するという理由から、大同大街や順天大街を避けて敷設されたという。
しばらく、線路を見ていると、路面電車がやってきた。1車両であまり大きくはない電車の中には、所狭しと乗客が乗って、混雑していた。
さて、長春の現在の地図(Google Map)を参考にすると、ライトレールは長春駅の南側から南西へ、鉄道に沿って延びている。そして、長春南駅の近くで長春市の東へ向かい、高速道路付近で南東へと向きを変えるように伸びている。
一方の路面電車は、当時新京市が計画した路線のままで、市内の一部分しか通っていない。ライトレールと路面電車との相互乗り入れは行われていないようで、これが市民の軌道系交通インフラとしての機能を?なっている。
長春/新京にはまだまだ視察すべき場所が多いが、ここで夕暮れとなってしまったので、都市の巡検を打ち切り、私たちは、最近中国で流行している文革レストランで夕食をとることにした。
文革レストランとは、文化大革命時代の様子が店内に描写されており、文化大革命時代の雰囲気を疑似体験しつつ食事ができる、テーマパーク的感覚の店である。
店に入るとすぐ目に入るのが、金の毛沢東像である。階段付近の壁には中国国民が皆手を取り合っている写真や祖国万歳とかかれた絵、共産党に関する絵があり、面白おかしく文革時代を表現していた。円卓のある個室に案内されると、その中には、壁一面に当時の絵や地主を打倒する風刺画が描かれている。料理の価格帯からして中産階級をメインターゲットにしていると思われ、家族連れの客も見かけた。文革時代を知らない子供に、当時の様子を親が説明するにはうってつけであり、国の歴史を若い世代に受け継ぐ機能も持っているのであろう。2009年6月15日付ワシントンポストには、中国では文革時代がブームになっており、文革レストランや紅衛兵が被っていた帽子が再び人気になっているという記事が載っている。
中国でこのように文革時代がブームになっていることには、次のような背景が考えられる。
まず、豊かであるが格差がある現代から、貧困であったけれども平等であった文革時代をノスタルジックに捉えている。次に、中国共産党に導かれた中華人民共和国の発展史を振り返ることで、中国が大国であるというアイデンティティを確認できる。第三に、当時の人民の一体感への懐古が、現在の市場経済への移行による疎外の拡大へのアンチテーゼにもなっていることも挙げられる。
食事を終え、ホテルに帰って、翌日の四平/四平街への巡検に備えた。
● このウエブページは、2009年度3年ゼミ生の後藤太郎が担当者であり、原稿の草稿まで作成したが、その後再三の請求にもかかわらず担当者から完成版の提出が得られなかったので、やむなく研究室で完成させた。作業は、齋藤俊幸が担当した。 |