早朝5時。全国が1つの標準時である中国で、東のはずれに位置する延吉の朝は早く、このころにはもう朝日が昇っていた。
私たちが朝食をとる、6時開店のレストランの前には、5時45分の時点で既に17人が列を作っており、1階ロビーにも30人ほどのツアー客が買い物やチェックアウトなどしてレストラン開店までの時間をつぶしていた。ツアー客はいずれも50〜70代の観光客で、ある程度満足した暮らしをしていそうな身なりであり、余裕が感じられた。また、持ち物や韓国語を話しているところから、韓国から観光目的でここまでやってきたツアー客ではないかと思われた。徐先生曰く、韓国西部・南部の方言を話していたという。これから白頭山/長白山に向かうのだろうか。
ホテルの両替レートは1万円=650元だった。ホテルでの外貨両替の場合、ホテル側は宿泊客に対する商業的サービスの一環として両替を行っているため、ホテル側に中間マージン分をとられることが多い。いぜん中国では、ホテルでも全国一律の公定レートでの両替が義務付けられていたが、いまでは規制が緩和されたようだ。そのため、レートも通常の銀行よりも悪くなっている。
フロントに併設されたカウンターには、ホテルと提携している中国の旅行社のツアー広告が貼り出されていた。行先は香港・北京をはじめ、日本・韓国・台湾・アメリカ・ヨーロッパと様々で、最近の中国人ツーリズムの拡大が見て取れる。なかでも目を引いたのが、「延邊文化国際旅行社」が企画する、中国人向け1泊2日北朝鮮周遊ツアーである(「延辺文化国際旅行社有限公司」発行パンフレット:「?的私人旅遊願問」より)。「内容は60年代の集合農場や北朝鮮最大の化学工場観光、琵琶島自然観光や海水浴、新鮮な海産物の食事などで、狭義の観光対象だけでなく、産業施設にも立ち入らせている。中国と北朝鮮がいかに友好的な関係を築き、中国人を信用しているかがわかる。きっと日本人や韓国人がこのようなツアーに参加することは上可能であろう。中国人にとって、北朝鮮は、閉じられた国ではなくごく普通の隣国だということだ。
午前7時。朝食を食べ終えた私たちは、本日最初の視察地である図們川へ向けて出発した。
延辺朝鮮族自治州の首府である延吉市の総人口42万人のうち、57.7%の人口が朝鮮族である。市街には中国語・朝鮮語の2カ国語表記の飲食店や商店、総合病院やデパート、スーパーなど、ある程度大規模な施設が林立し、延辺朝鮮族自治州の首府ならではと言った印象を受けた。延吉市街内の大通りの道路幅員は広く、片側3車線、全幅
20m弱という広さだった。また歩道幅も5mはあり、計画的な道路計画が実施された様子がわかる。また、巨大施設の工事現場や建設途中の集合住宅なども目にすることができた。
延吉市街地から20分ほど車を走らせると、農地が広がり始めた。住居環境は朝鮮風の平屋が多く見られるようになり、ビニールハウスが近くにあることもしばしばあった。計画的な農業開発がおこなわれているようで、荒廃地は少なく、区画整備され、生産性は高いものと推測できる。バスからは主にトウモロコシや稲が観察できた。この他にもこの地域では、タバコ、亜麻、エゴマ、リンゴなどが生産されており、延辺産のタバコや米は有名な商用産品であるようだ。道路の北側には200m〜400m級の山が峰を連ね、ここではマツタケやキクラゲなど様々な食用菌類が産出される。ほか、赤松、白松、砂松などの木材を年間122万m3も生産している、1次産業生産基地でもある(延吉投資指南)。
午前7時45分、私たちは図們に到着した。市内の主要道路の幅員は10mほどで、広いとは言えず、延吉に比べると都市のランクの低さは歴然である。また、延吉市にはあまり見られなかった人力車が多く見られ、市民の足として利用されていた。市内に入ってすぐ、私たちは車を広場の前に停め、図們江の視察へと向かった。
図們市図們市もまた延辺朝鮮族自治州に属する。総人口は13.7万人のうち、朝鮮族は全体の56.4%を占める7.7万人である。図們江を隔てて北朝鮮と隣接し、物流でも中国東北部において重要な貿易中継地点としての役割を担っており、ロシア、北朝鮮、韓国、日本などの物資輸送の中継基地として、国家一類通商口とされている。また、延吉同様外国資本の積極的な誘致を行っており、図們市経済開発区も建設されている。1998年から2002年までで1億195.6万元、42社の外資系企業の誘致に成功している。経済発展も目覚ましく、図們市の市内総生産は2005年の16.3億元から、2008年には23億元にまで成長している(図們投資指南)。 |
朝鮮民族は「豆満江」と呼び、「雨にぬれた豆満江」という韓国の歌謡曲の舞台として特に有名であると徐先生は紹介してくれた。豆満/図們江は、直接国境を接していなくとも、韓国人にとっては愛着の湧く河川なのである。川幅は50mほどで、思ったよりも狭く、向かい側はもう北朝鮮である。図們江は、茶褐色をしている。このような色をしている
理由は鉄鉱石を洗浄する場所が上流にあるためだとガイド氏は言う。橋が二本かかっており、一本は鉄道橋、もう一本は出入国管理所が設置されている道路橋の図們大橋である。
図們江は、画定されている中朝国境線よりもやや北朝鮮側を走っている。もともと、豆満/図們江左岸に沿って中朝国境線を画定したが、自然条件の変化で、河川が移動してしまった。したがって、中国側から川の遊覧船に乗った場合、国境線を越えて、北朝鮮側に近づくことができる。私たちは運賃40元を支払い、実際にボートに乗り、図們江を視察した。船頭曰く、この川では、中国側監視カメラの死角を突いて北朝鮮から中国へ、ドラッグの密売が行われているそうである。さらに、北朝鮮側には50m間隔で兵士が駐在し、監視を行っているが、普段は姿を見せない。しかし、時に彼らは観光客に対して煙草や現金を要求してくる。 私たちが視察を行っているとき、北朝鮮側の草むらから人物が姿を現し、ジェスチャーでそれらを要求してきた。危険と察知したため、その姿を撮影することはできなかったが、初めて生の北朝鮮人民を見た瞬間であった。肌は少々浅黒く、表情は暗かった。そこからは貧困と飢餓に苦しむ生活の様子がうかがえた。船頭は、北朝鮮の平均収入が12,000北朝鮮ウォン/月であり、1中国元が430北朝鮮ウォンで取引されていると言う。北朝鮮国内では米ドルだと両替が必要だが、中国元だとそのまま使えるので、こうして観光客に金品をねだってくるのである。このように、中国元経済圏が国境を越えて広がりを見せている現状を垣間見ることができた。河川には他にも3艇ほどボートが往来しており、それぞれに観光客が乗っていた。
船頭は、図們江を越えて中国人の建設労働者が北朝鮮に働きに行くことが多い、と話してくれた。北朝鮮では男子に長期間の兵役が課せられているため、労働力として若い男性を確保できない。このため、北朝鮮国内では建設現場に女性労働者が多く雇用されているが、彼女らの生産性は低い。そこで、中国人事業家が北朝鮮政府から事業を下請けするとき中国人労働者も引き連れてゆくのだ、という。もっとも、アフリカなどでも、中国企業が建設プロジェクトを請け負った際には大量の中国人労働者を連れてゆくから、必ずしもこれが北朝鮮だけの状況とはいえない。北朝鮮で働く中国人労働者の月収は平均約3000元。吉林省の平均年収が11081元(「中国ビジネス情報案内」を参照)、これを月収で割ると923.42元であるため、これはかなり待遇が良い。北朝鮮国内で中国のビジネスは、かなり浸透しているようである。
15分ほどの視察の後、船を下りたところで船頭は、1960年代には、北朝鮮の方が図們よりも生活が豊かだった、だが現在では、図們の朝鮮族の多くは韓国での就業を希望している、と言った。船頭の娘も、韓国国内で働いているそうだ。1960年代に入り、中ソ対立が激化した結果、ソ連の援助が中国から引き揚げられ、中国国内に技術者が上足した。これに大躍進政策の失敗も加わり、1960年代の中国は経済が停滞した。だが北朝鮮は、ソ連が引き続き行った援助と、それに支えられ金日成が推進した千里馬運動によって生活水準が高まった。船頭から聞いた話は、この通説を裏付けている。

午前8時48分、図們大橋のたもとに着いた。この橋は、1941年11月に日本が建造した。私たちは、国境線が道路に引いてある中国領の部分まで、歩いていくことができる。ここにもやはり、多くの中国人観光客が訪れていた。そこには係官が監視していて、その目を盗んで勝手に線の向こうに行こうものなら大声で怒鳴られる。前述のとおり、国境線は図們江の中心よりもかなり中国より、川のほぼ左岸にそってひかれていた。ここから北朝鮮側を見回しても、先ほど船内の我々にたばこやお金をねだってきた兵士や、監視中の他の兵士の姿を確認することはできなかった。
その後、私たちは入場料を支払い、出入国管理所の屋上展望台に登った。出入国管理所は、入場料をとって観光ビジネスを展開している。ここまで登る途中、階段の踊り場には土産物屋や朝鮮民族の伝統衣装貸しの店があった。このような狭い場所も、テナント料を取って収益獲得手段に使っているのであろう。
展望台からは、北朝鮮側の南陽の街並みを一望することができた。図們江をはさんで中国側は平地であるが、北朝鮮側は丘である。そのほとんどに木が全く生えていなかった。木材を伐採し、十分な植林を行わなかったために森林は再生されず、禿山となってしまったのであろう。展望台上から観察しても、南陽の街に人影は見当たらない。見えるものは、「金
日成将軍万歳」という看板を掲げる出入国管理所、農耕地、民家、事務所風の建物、鉄道駅程度である。農耕地にはトラクターがあり、それなりの機械化が進んでいるように見える。民家の中には、煙が上がり、洗濯物を干しているものもあり、生活感が感じられた。向かって右側にオフィス群があり、日本植民地時代の建造物のようである。築70〜80年といったところだろうか。一方、図們江をはさんで中国側には新興住宅団地が悠然と立ち並んでいた。国際貨物列車が走り、交易を行っているといっても、やはり、国境は生活や経済の境界であり、図們江は北朝鮮と中国の経済、文化、金融を隔絶する有界化の線なのである。
かつて、満洲国の首都新京と日本本土を直結しようと日本が建設した鉄道橋には、現在も一日1本のダイヤで国際貨物列車が運行しているそうだ。しかし、残念ながら私たちの視察中に列車がやって来ることはなかった。しかし、中国側から北朝鮮へ国境を渡る車や人々を目撃することはできた。吉林省ナンバーの乗用車、パワーショベルやトラックなどの産業車両、北朝鮮ナンバーのトヨタ製乗用車、歩いて国境を渡る者2,3名がそれである。往来する乗用車は、中国・北朝鮮在住のビジネスマンのものであろう。産業車両は前述のパッケージ契約を結んだ中国人事業家のものである可能性が高い。私たちが出入国管理所の地上部にいた30分程度の間にもこれだけの往来があるのだから、中朝の経済交流はかなりあるようだ。
展望台を降りて、出入国管理所付近に造られた土産物屋を見て回った。ここには北朝鮮の通貨など、北朝鮮に関係する商品が売られており、北朝鮮が観光対象となっている現状がうかがえた。
中朝の国境問題:
|
午前9時45分。バスは豆満/図們江国境付近を出発し、琿春市街へとひた走る。車道はあまり整備が進んでいるものではなく、片側1車線道路で、道路幅は6m程度である。この延長上には、ノヴァヤ・ジェレヴナヤを通ってウラジオストクまで繋がる、建設中の高速道路や高速道路専用高架橋があり、上海協力機構以降の緊密化する中露関係のもとで、両国の流通拡大、交易の深化を策する中国政府の意向を目の当たりにすることができた。図們江に並行して十数キロにわたって畑作地帯、稲作地帯が広がり、ビニールハウス農地、果物など農作物を売る露店があった。私たちの車の横を、物流関係らしい大型トラックが何台も通過していく。この先に中国の主要都市は無いから、ロシアに向かうのであろう。ここ数年の、中露経済関係の進展具合がうかがえる。何台かの軍用トラックが通過するところも目にした。いくら中国がロシア、北朝鮮という隣接する2国と密な経済関係を築こうとしていても、やはりここは軍事的に重要な国境地帯であることは変わらない。
これに対し、北朝鮮側の豆満/図們江沿岸は、ずっと水田地帯が続くばかりであった。この地帯にはまだ工業開発の手は進んでいないように思える。
午前10時35分、バスは高速道路へと入った。今まで車両右側に見えていた豆満/図們江は見えなくなり、両側に農地が広がるようになった。しばらく走ると、灰色のレンガ状の石が多く積まれている工場があった。ここで製造したブロックや建築資材を吉林省各地に輸送するのだろう。また、図們発電房という火力発電所を通過した。石炭が山積みされているところから察するに、燃料は中国国内産出の石炭を使用しているようだ。さらに車を走らせ、中露を結ぶ鉄道線路を横切ると、琿春市街地へと入って行った。高速通行料は10元だった。
北朝鮮との関係を強める街、琿春中国は、19世紀のロシアとの条約によって封じられた日本海への出口を求めている。圏河通商口および沙?子通商口を経由して、北朝鮮の羅津港を通じ、釜山港までコンテナの流通路を確保している(琿春市人民政府)。裴淵弘『中朝国境をゆく』166頁は「琿春市の貿易会社などが、北朝鮮の羅先市人民委員会と共同出資して「羅先国際物流合営公司」を設立させ、日本海に面した羅津港にある二つの埠頭(第三、第四埠頭)の五〇年間の独占使用権、つまり租借権を手に入れた。」と述べ、2010年1月7日の『日本経済新聞』は、羅津港を日本海への出口として確保して、日本や韓国などへの出荷能力を拡大することを目的に、中国政府が琿春市と羅先市とを結ぶ橋や道路などのインフラを整備することを北朝鮮政府と合意した、これが「実現すれば、日本海における中国の存在感が大きくなりそうだ。」と報じている。 しかし、岩下明裕氏によると、「ロシア側は国境通関簡素化のような(金のかからない)ソフト・インフラの整備でさえ、「上法滞在」中国人うんぬんを持ち出して、消極的姿勢を変えないという(環日本海研究所『ERINA REPORT』No.38:36)。中国はロシアの消極性にかんがみ、羅津・先鋒の北朝鮮ルートを動かし、ロシア・ルートに競合させることを通じ経済的な利益を得ようとしている(環日本海研究所『ERINA REPORT』No.15:1,No.21:12-13)。」(岩下明裕著『中・ロ国境4000キロ』角川書店 2003 p67)。 とあるように、ロシアはこの地域の中露国交に対して消極的な姿勢を示しており、中国は北朝鮮を通じた国際貿易ルートの整備に努めている。 |
午前10時44分。琿春市街地に入ると、これまでとはうって変わって道が真新しいものになった。道はかなり整備されており、片側2車線の道路幅は20mほどもあり、幅5mほどの草木を植えた安全地帯を挟んで、幅5mほどの歩道が造られている。
琿春市内の人口は約25万人。そのうち朝鮮族は41.9%と、延吉、図們同様朝鮮民族色の強い地域である(中国吉林省琿春市人民政府「琿春へようこそ!」)ケ小平は琿春市を、満洲里・綏芬河・黒河と並ぶ初の国境開放都市として開発の拠点に定め、早くから国境貿易の拡大を画策してきた(岩下明裕著『北方領土問題』前出 p55)。市内の道路看板は中国語、朝鮮語、ロシア語で表記されている。私たちはこれまでの巡検の中で、ここにきて初めてロシア語併記を見ることができた。さらに車を進めると、より広い道路に出た。ここは片側3車線で道路の真ん中にも草木がある安全地帯が設置されており、都市計画が綿密な計画の下ですすんでいることがうかがえる。
新明大橋を通過して琿春河を渡り、バスはさらに南下。3国国境地帯を目指す。この橋と並行して鉄道線路橋も建造されていた。
しばらく進むと、両手に農耕地が広がる地帯に出た。道路上には「防川重要風景地区」と書かれた石碑があった。つまり、農業生産の維持を図ると同時に、田園風景を観光資源としても積極的に保護しているのである。付近に蓮花湖公園という自然公園が建造されているのも、この地帯が自然地区に指定されているからであろう。上述した、琿春市の多様な産業開発政策のありようがわかった。
次第に、ロシアの国境が道路の進行方向左に迫り、中国の領土が狭窄してゆく。
午前11時半。バスは3国国境がもっとも肉薄する地点に到着し、私たちは一度降車した。ここは、左手がロシア領、右手に流れる図們江の対岸は北朝鮮領であり、私たちがいる道路上のみが中国領である。 ここは、戦前の地形図をみると、ロシアの国境線が東から豆満江/図們江の中に入り込み、中国の領土は、完全に川の中に追いやられてしまっている(ソ連軍参謀本部編著 景仁文化社補訂『最近北韓五萬分之一地形図上巻』 高麗書林 1997)。すなわち、中国の領土のこれより南は、川の水面で分断され、陸続きではなかった。そこで、中国はこの地点の豆満江/図們江を埋め立てて道路を造り、中国領だけで南部と陸続きになるようにしたのである。
ハサン地域の中露領有権問題中国は、北京条約という帝政ロシアに押し付けられた上平等条約で失った日本海への出口を回復したい熱望に、常に駆られている。 1950年代末、フルシチョフのスターリン批判に端を発して、中ソ対立が表面化していった。これにより、中国とソ連の対立的な構造が出来上がり、1969年の珍宝島事件など、中国がソ連に対して武力行使に出るようになった(前田哲男・手嶋龍一著『中ソ国境〜国際政治の空白地帯〜』 1986 日本放送出版協会)。 この問題解決の契機となったのが、1991年に中国とソ連の間で結ばれた中ソ東部国境協定(91年協定)であった。この協定によると、中露両国は一般国際法規範に則って国境線を画定するものとし、河川国境は主要航路で決定。島嶼の帰属はその国境線に準ずるものとされ、航行できない河川においては河の中央か、主要な流れの中央線において国境線を画定するものとされた。また、この協定内で、領土の帰属・割譲および陸国境線の画定に関する事項は決定され、河川国境は協議を続けるものとされていた(岩下『中・ロ国境4000キロ』pp25-26)。 91年協定は中露間に存在する国境線問題に終止符を打つために結ばれたものであった。しかし、この協定の中には、ロシア政府が中国に1,500haの領土を割譲することが盛り込まれており、その割譲領土のなかにハサン地域300haも含まれていたのである。中国に160ha、ロシアに140haという風に、中国とロシア相互の利益を考慮して割譲されることとなった(岩下『北方領土問題』p59)。 ロシア国内ではこの協定に対して反対する動きが起こり、沿海地方知事ナズドラチェンコを中心とした条約破棄を求めるキャンペーン、によって、ハサン国境の画定作業は遅々として進まなかった。ロシアの国内法規により、91年協定は予定された国境画定作業がすべて完了しない限り効力を発することはできず、その画定作業の期限は批准後5年となっていたため、画定作業が予定通り完了しないことで中露国境が法的に保障されなくなってしまう可能性があったのである(岩下『北方領土問題』p60)。もしもここで、国境線が画定されずに協定が破談した場合、中露関係の破綻が決定的なものとなり、ロシアの国際的な信頼の低下という事態にもなりかねなかった。 91年協定が当初の予定通り履行された場合、ハサン地区300haの土地は中国に移管されることになっていた(岩下『中・ロ国境4000キロ』p29,p52)。その場合、中国は陸続きで図們江河口の3国国境地点まで道路を引くことが可能になったはずであった。しかし、ハサン地区300haの中国への譲渡に関して、ナズドラチェンコたちによる政治キャンペーンが起こり、この地点が譲渡の是非を問う係争地となった。もしもこのとき反対運動が起こらず、係争地300haが中国側に完全に委譲されていた場合、その部分に道路を建造することができるため、中国はわざわざ川を埋め立てて道路をつくる必要はなかったのである。 画定作業が進行しないため、1997年6月、ロシア政府は中国政府に対して、ハサン係争地を半分に割譲するという妥協案を提示した。これを中国側が認め、ハサン地域の国境画定作業が終結し、91年協定は有効な中露間の条約として機能したのである(岩下『北方領土問題』pp65-66)。 この結果、1998年、図們江上の中露朝3国国境線の画定も進み、91年協定締結時点では中露国境は河口上流17キロ地点と確認されていたが(岩下『中・ロ国境4000キロ』p48)、中国国境は図們江河口よりも18.2kmも離れた位置となり(岩下『中・ロ国境4000キロ』pp64-66)、遂に中国は日本海への出口を得ないまま国境線は画定されたのである。 |
午前11時55分。私たちの車は、中国・ロシア・北朝鮮の3国国境が接するハサン3国国境地帯に到着した。ここは人民解放軍の施設であり、軍事的に無視できない緊張をはらんだ地区のはずであるが、中国側には立派な展望台と観光バスが十数台は駐車できるほど広い駐車場が建造されており、観光業に力を入れている。展望台入場料は20元、駐車料金は小型10元、中型15元、大型20元であった。写真撮影も自由という、異例の大サービスである。
展望台の壁面には「祖国利益高于一切」という、これまで訪れた人民解放軍の施設にも掲げてあったスローガンと同じものが大きく書かれていた。また、中国軍兵士の写真と「祖国と心を繋げ、使命と忠誠心を持ち、国境を強固にして国を守る」と書かれた大きな看板があった。
展望台は小高い丘の上に立ち、高さ15〜20mはある白く新しい建物だった。1階と2階部分は軍関係の施設のようで、中に入ることは許されなかった。いくら観光拠点として開発しようとしても、軍事施設そのものを一般開放することはできない。一般の人々は建物の外に設けられた階段で直接屋上の展望台へ登り、3国国境地帯を観察するようになっている。
中国領内は、展望台、軍監視塔、中国軍軍事観察用の道の他は森林が広がっている程度である。漁船はおろか民間のボートも見当たらない。展望台の壁には、見える方向の地名が書いてある。「日本海」とはっきり漢字で書いてある方角に向かって、展望台の目の前を、中露国境がうねって延びている。国境線は2mほどのT字型の支柱が何本も並び、これに針金が張ってあるという構造である。国境線に沿ってフェンスが立てられ、監視用のダートの道路がある。そして、ダートよりも5mほど手前に、上部に有刺鉄線が巻かれた真新しい緑色のフェンスが建てられていた。こちらの新しいフェンスは、この軍事施設用地の境界を示しているのであろう。国境のすぐ近くには軍監視塔が立地していた。観光地化していても、国境付近は非常に厳重に監視されている。
露朝を結ぶ鉄道橋のすぐ手前で、中国領は、ロシアと北朝鮮に両側から押しつぶされるようにして終わり、豆満/図們江は、ロシアと北朝鮮との国境河川となって日本海に注いでいる。北朝鮮がソ連の覇権下に入った戦後に建設された、露朝を直接結ぶ鉄道橋がかけられている。この橋は、2001年8月4日、金正日総書記がモスクワを訪問した際に渡った。橋をロシア側から目を移していくと、支える桁の大きさが途中から小さくなっている。これは、国境線を境として大きさが変っており、どこが国境なのか、視覚的に判断できる。
鉄橋の左のロシア領内には、鉄道駅と1000人規模の集落があり、その後ろには草原地帯が広がっている。草原地帯には農業を営んでいる形跡はなく、真中にポツンとテレビ電波受信用の巨大なアンテナが設置してあった。そして何もない荒野を一本の道路が突っ切っている。私たちが観察した20分ほどの間に2台の車の通過を見た。集落の中心に位置する国境のハサン駅には、多くの貨車が停車していた。その中に、ラテン文字に直して「DBTG」と表記された車両があり、ライトグリーンの家畜車だった。ロシアと北朝鮮は線路幅が異なるため、台車を取り換えねばならない。取り換え待ちと思われる。
駅をはさんで左側には民家群、小高い丘の上には大きな豪邸らしきものが見える。おそらく、高級官僚や高級軍人が暮らす宿舎なのだろう。同じような丘には洗濯物をたくさん干している大きな民家らしきものも見える。駅をはさんで右側には事務所群らしきものが立地している。ここには政府関係や軍関係の事務所もあるのだろう。駅の近くには、見張り台のようなものもいくつか設置してあった。双眼鏡で、特徴的なロシア式の公衆トイレも見ることができた。中露国境が接する図們江河岸沿いには、軍関係監視台があった。
モスクワから最も遠い鉄道駅であるハサンは、全体として寂しく、閑散とした集落だった。朝鮮を覇権下に置くことを念頭に、清朝の日本海への出口を奪って19世紀の北京条約でロシアと朝鮮が直接接するようにされた国境線をこえて、ソ連と朝鮮をつなぐため戦後建設された国境駅であるが、現在のロシア政府として、ハサンを国境都市として経済開発する意志は薄いように思える。
北朝鮮側は、ロシアよりもさらに寂しいものだった。大日本帝国陸地測量部『満洲五十万分一図』(1936)によると、ここは「土里洞」という町である。町内には、鉄道駅である「豆満江駅」、軍事宿舎や軍関係のオフィスとして利用されていると思われる平屋造りの10軒余りの建物、出入国管理所だけで、後ろには荒れた木のない丘陵が続いていた。豆満江駅から少し離れた所に機関車が停車しており、20両近くの貨物車両も停車中であったが、動いているものはなかった。軍や国境警備など政治的機能以外の都市としての機能の立地は認められず、経済や金融からは隔絶された土地である印象を受けた。国境経済としての都市形成モデルを感じさせるものはなかった。北朝鮮政府に、ここを産業開発基地として資本を注入し、発展させるつもりはないのであろう。
3国を比較してみて、この「3国国境地帯」という特殊性をツーリズムに結びつけ、ツーリストマネーの獲得を狙っているのは中国だけである。中国は、近隣に、延吉、図們、琿春などの中心都市が形成されている。また、琿春を国境開放都市として開発に力を入れるなど、政策的なバックアップも強い。ロシアは、上平等条約で引いたアジアへの植民地的フロンティアをその後の交渉で改めて正統的な国境として中国に認めさせることに成功した、条約交渉の勝利者である。そのようなロシアにとって、国境とは、いぜんセンシティブな地点なのかもしれない。また、北朝鮮の経済事情として、国民にはツーリズムに資金を注ぐほどの家計の余裕はない。更に、外国人に一般に国境を開放していないため、外国人ツーリストがここを訪れ、ツーリストマネーを落としていくとも考えづらい。それゆえ、露・朝にとっては、ここを観光産業の拠点として開発するインセンティブは極端に低いのである。そうした背景から、中露朝3国の間で、ツーリズムに対する温度差が生じていると予測できる。さらに、中国がここをあえて観光地化する背景には、愛琿・北京条約がもたらした永遠の屈辱を視覚的に捉える場所として、愛国主義を増長させようという意思があるのではないか。
この三国国境は、戦前はそのまま、満洲国・ソ連・そして日本植民地朝鮮の国境であった。すなわち、日本とソ連とのフロンティアが直接国境でぶつかり合っていたのが、この地域であった。そこで起こったのが、張鼓峰事件である。三国国境地帯の視察を終えた私たちは、次いで、この張鼓峰に向かった。
張鼓峰事件
|
張鼓峰には、「戦地展覧館」が設置されている。これは愛国主義教育基地に指定されており、土地柄、朝鮮語でもその記載がなされてあった。また、国内外の学生や旅行者がこの展覧館に訪れ、当時のソ満国境紛争について理解を深めている様子である。
この展覧館のテーマは、「ソ連の強大さを思い知った日本」である。毛沢東選集に取り上げられた張鼓峰事件についての「日本はノモンハン、張鼓峰の二つの事件でソ連の強大さを知り、ソ連に対抗しようという意識を失った。」という一文が、展覧館の前に大きく掲出されている。展覧館パンフレットは、「日本軍には海軍派の南進論と陸軍派の北進論があった。(中略)…[日本は]張鼓峰事件とノモンハン事件の2度の対ソ戦線に失敗した。日本の首脳部は北進に頓挫し、これより日本軍は南進論に希望を抱かざるを得なくなった。」と記してあるように、日本がソ連に勝てないことを知り、太平洋戦線に転換せざるを得なくなった、と解説している。また、同パンフレットは、中国人の強大な抗日戦争によって日本軍の兵力が衰え、ソ連に十分な戦力を向ける余力がなかったため日本軍は張鼓峰事件で敗北した、とも記されており、張鼓峰事件での日本の敗北に対する中国人の貢献を強調していた。
館内に入ると、大きなガラスケースの中に実弾で「1938」と形作られたモニュメントが大きく展示されていた。更に当時の戦況や部隊配置を示す戦時地図なども掲載され、歴史的に重要な資料も数多くあった。その中に「戦争の被害を受けた張鼓峰付近の朝鮮族農家」と題した写真があり、この地に多く暮らす朝鮮族住民が反日感情を覚えるべく掲示してあるのかもしれない。
中には張逸仙という共産党員の掲示もあった。この人は、1933年に共産国際(中国)情報組織に加入し、ソ連軍スパイとして日本軍の参戦兵力などを偵察していた人間である(張鼓峰事件戦地展覧館パンフレットより)。彼の偉大な功績によってソ連軍は勝利できた、と讃えられていた。
中に進むと、ソ連側の地図や写真など、テーマに沿った展示がなされていた。建物の前の看板に引用があった毛沢東選集が、資料として大きく展示されていた。実際に戦地で用いられた多くの実弾や兵器の展示もなされていた。このほか、この地に訪れた多くの共産党幹部や指導者たち、後述の呉大徴についての解説もあった。文学者としても有名な呉大澄を紹介し、付近に建設されている巨大な呉大澄像との連携がなされていたように感じた。
事件とは直接関係がないが、この周辺と日本海の港とを写した写真が掲示されており、中国が日本海への出口を得るためのプロジェクトが進んでいる旨の記述がなされていた。これも愛国教育のひとつなのだろう。この掲示には、「日本海(東海)」と書かれていた。よく見ると、「日本海」とはじめに書かれ、そのあと「(東海)」と書き足されたようである。日本海は中国から見れば東側にはないが、「東海」と表記すべきとする韓国の主張をも取り入れたのだ。ただし中国側のスタンスはあくまでも、「日本海」が主であった。
奥に行くと、裏口から外に出て、張鼓峰を望むことができた。左方には沙草峰が、正面には張鼓峰がそびえたっている。張鼓峰の姿に重なるようにして一枚の石碑が建てられており、それにはこう記されていた。「譲人類遠離戦争」(訳:人類から戦争がなくなりますように)と。その石碑の下部には、中国人が沙草峰周辺を工事中、さまざまな遺留品や亡骸が出土したと書かれ、戦争はあってはならないと伝えていた。
その後、13時10分、私たちは、この地方に英雄として語り継がれる「呉大澄」という人物が祀られている碑を訪れた。
道路のわきに大きく構える呉大澄像は、まだ真新しい。かなり綺麗に整備された階段を上ると、像の前は公園となっており、現地の人々の憩いの場として機能していた。この日も5人ほどの男性グループが将棋を楽しんでいた。
「民族の英雄」呉大澄1835年から1902年まで実在した、清代末期の金石学家、文字学家である。33歳のときに(1868年)科挙に合格。1880年に吉林省軍務の職を拝命した後は人民の信望を集め、国境を固め、砲台や砦の建設に従事した。その後、1886年に欽差大臣となり、琿春副督統である依克唐とともに中露国境紛争の鎮圧に努め、黒頂子地方の領有権を回復させた。国境線上には「薩」「?」「馬」「土」と書かれたものなど26個の石碑を設置し、国境画定に努力した。他地点の10km余りの領有を確たるものとしたのちは、銅柱も設け、「国境を表すこの柱を立て、これを動かすことはできない。」と書物の中にも明記した。また、1886年の琿春議定書締結までに、図們江河口において、せめて中国船が航行できるようロシアと交渉し、その権利を得たのも、ひとえに呉大澄の功績である(岩下明裕『中・ロ国境4000キロ』p48)。1886年に広東巡撫、1892年に湖南巡撫を歴任し、1902年病没した。(呉大澄像前に建造された石碑文を参考にした) |
ここに呉大澄の像を建造した理由は、国民に「国境防衛は重要である」というメッセージをアピールしたいという共産党の思惑があるのだろう。呉大澄像、張鼓峰事件歴史展覧館、ハサン3国国境地点というように、一貫した「国境」というテーマが語られ、日本海への出口を失った国境交渉の重い意味を伝えていた。
15時45分。国境地域をじっくり視察して時間が無くなったため、私たちは、昼食をキャンセルしてテイクアウトの容器に包んでもらった私たちは、延吉に向かった。図們市をつっきり、延吉の市街内に入ると、午前中には気づかなかったが、道路工事をしているところも多く、インフラ整備に積極的に取り組んでいるようだ。
延吉は朝鮮族自治区内にあるため、韓国系企業が多く進出しているのではないかと私たちは期待していた。はじめは、工業団地に進出している企業の視察を希望していたのだが、なかなかアポイントがとれない。結局取れたのは、延吉市街のなかにあり、長白山の近くという立地をうまく利用して天然水「星龍水」をブランド展開している韓国資本天然水メーカー「星島(延辺)緑色産業有限公司(韓国独資)」(以下星島有限公司)であった。
玄関を通ると、ガラスケースがあり、各国の飲料水製品と、星島有限公司の自社ブランド「星龍水」が展示してあった。私たちは2階にある会議室に通され、財務部科長の申玉華氏にお話を伺った。
星島有限公司の社長は朝鮮族の中国人である朴今石氏(以下、朴氏)で、投資元は「Han Sung Electronics」という韓国の電子機器の企業(以下、ハンソン社)である。技術協力などの直接的な業務提携はない。星島有限公司の本社はここ延吉で、長春、北京に事務所があり、工場は長白山の近くに立地、現在は二道白河にも工場を建造中である。本社勤務15人、工場労働者25人、デリバリー10人の計50人が延吉にて勤務しており、長春と北京の事務所でも数名が従事している。 社長である朴氏は元々、中国政府の官僚で、貿易関係の仕事に従事し、上海に勤務していた。そのとき、ハンソン社の韓国人社長(以下、ハンソン社社長)が上海・香港で事業を計画していたため、朴氏とハンソン社社長は知り合うことになった。朴氏はその後、官僚を辞め、ビジネスの道に転向し、ハンソン社に自己資産を投資した。この投資はハンソン社の株式の50%にものぼった。朴氏とハンソン社社長は韓国内での貿易事業でも関係があったらしく、ビジネスを通して二人には強い信頼関係が生まれた。朴氏はその後、ハンソン社社長に対し、白頭山/長白山は天然水ビジネスに秀でているため事業を展開してはどうかと提案した。ハンソン社社長はこれを受けて子会社を設立することを決め、信頼のおける朴氏をその会社の社長に任命した。つまり、ハンソン社の100%子会社社長の朴氏自身が、親会社のハンソン社の大株主であるという構造である。白頭山/長白山の天然水を商品に扱う会社は他にもあり、台湾資本の会社も二道白河にはあるが、韓国資本の会社は星島有限公司のみである。
天然水プロジェクト立ち上げ当時、専門家が白頭山/長白山周辺を調査し、地下2500mの深さから天然水が湧き出てくる源泉を発見した。工場はこの源泉から4km離れたところに立地しており、源泉から運ばれた天然水をここで製品化する。この天然水は地下深くで、50年もの長い循環を経て湧き出てくるものであり、雑菌が入っておらず清潔である。この循環のおかげで、製品化された「星龍泉」は低ナトリウムでアルカリ性(ph.:7.4)の天然水である。天然のミネラル素を多く含み、人体に必要とされる要素を多く含有している。また、無菌化など製品の製造過程で水本来の味を消さないよう工夫されているため、高品質の天然ミネラルウォーターとして仕上がっている。こうして、1999年4月15日、政府の書類審査をパスして、正式に企業として登録された。朴氏は会社設立後、星島有限公司を専業として仕事に従事している。初期投資額は600万ドルであった。
このように、星島有限公司の工場は、白頭山/長白山の近くにあるため、原料地立地型であると認識できる。飲料水メーカーの工場は消費地立地が基本であるが、長白山の天然水を製品化するためには原料地立地型で立地選択しなければならない。二道白河にも工場を建造中であることから、ビジネスは好調のようである。
星島有限公司はISO9000を取得、HACCP(Hazard Analysis and Critical Control Point:危害分析及び重要管理点)の食品衛生管理方式を採用しており、国内外の多数の賞を受賞している。中国飲料産業協会、中国軽工業品質証明センター、吉林省食品産業事務所からは「中国長白山天然水加工区」と名付けられた。「星龍泉」は中国食品産業組合から「オゾン加工を伴わない、非常にすぐれた新しい長白山の天然水商品」という評価を受け、吉林省からは「吉林省有名商標」、・吉林省名産品」などと認定、中国南方航空など航空会社への機内飲料供給社としての地位も確立している。(以上3つの段落に関しては申氏へのインタビューの他、星島緑色産業有限公司ガイドブックを参照)
こうした背景も受け、「星龍泉」の品質は高い評価を得ており、Evianよりも高品質であるとドイツの研究所が証明した、と申氏は強調された。そのため、EvianやVolvicなど、各国の飲料水メーカーが自社製品を星島有限公司に持ち寄り、視察・製品に関して相談をしに来るほどだという。星島有限公司の玄関ロビーに展示されていた多くの企業のミネラルウォーター製品は、その協力の証であった。私たちがインタビューを行った会議室の壁には、星島有限公司重役と各飲料水メーカー社長、韓国食品工業協会代表、吉林省秘書長、ロシア飲料水産業トップなどとの写真も展示されていた。

「星龍泉」のうち2〜3割が、20リットル弱入る大きなボトルでの販売である。これは1本10元で売られており、延吉市内では「延吉百貨大楼」というデパートで取り扱っている。同業他社の製品は同じサイズで7元であることから、自社製品の品質への自信がうかがえる。また、330ml、500ml入りのペットボトルはそれぞれ1元、1.2〜1.5元で販売しており、これらは延吉市内の小売店、他の地方や中国南方航空などの航空会社向けに販売している。他の飲料水メーカーは小売店に商品を卸す際、契約した本数よりも若干多く商品を搬送するが、星島有限公司はそのようなサービスは行わないという。それでも、延吉市における水販売のうち、3〜4割のシェアを獲得するほどである。店頭での販売のほか、配達も行っており、事務所に電話をすれば配送してくれるそうだ。残念ながら、ネット販売サービスは行っていない。 ビジネスは好調で、近々韓国にも進出するとのことだった。「白頭山」と銘うってあれば、やはり韓国人の購買意欲も掻き立てられるだろう。さらに元々製品の品質自体は高いから、これらの要素の相乗効果により、韓国内での販売ビジネスも成功することが期待できる。韓国での成功後は、アジア各国に進出することも計画している。今後は、フルーツジュースの開発も視野に入れているという。
参考(インタビューの他)
・星島(延辺)緑色産業有限公司(韓国独資)ガイドブック
17時20分、星島有限公司を辞した私たちは、当初の巡検予定にはなかったため、ガイドと運転手にエクストラマネー100元を支払い、延吉市東部、プルハートン川南北両岸に位置する延吉経済技術開発区(以下開発区)を訪れた。
延吉市は積極的に外国資本の誘致を行っており、開発区ではさまざまな優遇政策を実施して、資本が流入しやすい環境を作っている。敷地面積5.33km2の開発区内には中小企業工業園、民営工業園、創業園、ハイテク産業園、IT 産業園と区画整備がされている(日本貿易振興機構大連事務所『延辺朝鮮族自治州概況』2009.5、延吉投資指南)。
私たちが訪れた開発区南側区は、大きなゲートをくぐり、4kmほどの長い開発軸となる長白路と、長白路と平行・垂直に伸びる道路とでできた、いくつかの長方形のブロックにより構成されていた。
ゲートをくぐるとまず、中国飲料水大手「娃哈哈」、韓国系健康ベッドメーカー「CERAGEM」(中国名「吉林喜来健実業公司」)が見られた。さらにSUBARU、HONDA、NISSAN、HYUNDAI、JEEPなど外国資本系自動車ディーラーのショールーム、自動車装飾会社など、消費地立地型産業が集積している。延吉市暢達食品有限公司などの食品会社も立地。また、吉林敖東医薬有限責任公司など製薬会社が数社、たばこ会社も立地していた。製薬やたばこの企業があるのは、白頭山/長白山など自然豊かな自然資源が近くにあり、そこから製薬やたばこ産業に適した材料を採取できるからで、原料立地型産業である。
また、行政府所有の賃貸工場も設けられている。これは、工場用の建物を中央・地方行政府が所有するもので、自社工場を所有することができない中小企業にこの建物の一部を貸し出し、中で生産活動をできるようにしたもので、中国の開発区における企業誘致活動の一つとして定着している。(「賃貸工場」の名称は上海市工業総合開発区HPを参照)
しかし、その触れ込みとは裏腹に、この開発区の現実は寂しい。大規模に開発区建設工事を行い、外国企業を誘致した割には、目立ったにぎわいを見せていない。工場はあっても看板がないためどこの会社かわからず、今ではもう廃墟となってしまった建物もあった。街頭には「工場の土地、建物売ります。」と書かれた看板や、全く手入れされていないために歩道に乗り出してしまっている街路樹などがある。いくつかの工場の敷地の中に目を移すと、廃墟の工場の内部には栽培園があり、工場は今ではもう使われていないにもかかわわらずこの栽培園には作物が植えられていた。近隣の居住者や労働者たちが廃墟となった工場の敷地を耕作しているのではなかろうか。実際に、住民が収穫したものを天日干しにする作業をしているところを見ることができた。栽培園の規模から、作物は商業目的というよりも自分たちが利用するために作っているのであろうか。あるいは、賃金だけでは生活できないから、小遣い稼ぎに個人販売するためにこうして作物を栽培しているのだろうか。いずれにせよ、生活を支えるひとつの手段としてこの栽培園が活用されているのであった。
開発区の中には労働者向けの新興集合住宅も建設されていて、数えてみると(窓の数×建物の数)、その戸数はざっと2000戸以上はあった。しかし日が暮れたにもかかわらずこれらの住宅の明かりは点いていない。開発区は、後に訪れる大連の開発区(巡検記録にジャンプ)に比べて、計画通りのにぎわいを見せていない。中国に多数開発区があるが、延吉は、成功を遂げなかった開発区の例として扱うことができる。私たちがいくら開発区に立地する企業の視察を求めても、アポイントがとれなかったのは無理からぬことである。
ではなぜ、この開発区は成功しなかったのであろうか。その大きな理由の一つに、私たちが今日の昼に視察した、日本海への出口を中国が持っていない現実があるのではなかろうか。ロシアは豆満江/図們江に港湾の建設を認めていない。それゆえ「吉林省内で生産された製品の輸出港は大連港を利用するケースが殆どであり、大連までの輸送が必要となる」(国際協力銀行『中国投資環境シリーズ(吉林省編)〜2006年9月〜』)。つまり、製品を他国・他地域に輸送するためには、大連まで鉄道またはトラック輸送し、大連港からその他の国や地域に輸送しなければならない。原料の搬入も同じである。しかしこれでは、余計な輸送コストがかかってしまう。沿岸地区に工場を立地させた方が、賢明であろう。開発区を建設しても、港湾や輸送拠点を持たない場合、目覚ましい発展を遂げることは難しいことがわかる。
吉林省は、琿春市と北朝鮮の羅先市とをつなぐ橋や道路の補修・建設などインフラ整備を通じて、羅津港を日本海への出口として国際貿易の拡大を狙っている(日本経済新聞2010.1.7)が、羅津港が計画通りに機能するかはまだ上明確だ。韓国-北朝鮮関係がぎくしゃくしていると、北朝鮮が韓国企業の貨物を差し止めたり、商品に上当に関税をかけたりといった事態の可能性も否定できない。
二つ目の理由が、労働力の移動である。この地域の朝鮮族労働力は、空間的移動性が高い。近年、山東省に拠点を構える韓国企業が増加している。港湾が無い延吉で生産し、大連経由で輸送するよりも、港湾を持ち、直接生産・輸送を行える地域に立地したほうが韓国企業ははるかにコストを安く抑えることができるであろう。朝鮮族の労働力は、山東省にいつでも移動してきてくれるのである(『中朝国境をゆく 全長1300キロの魔境』pp139-140)。また、図們江の船頭の話からもわかるように、朝鮮族の中には韓国へ出稼ぎに行く者も増えている。
こうした、韓国企業の立地動向と朝鮮族人口の流出により、この開発区は賑わいを見せられずにいるのであると考えられる。
18時35分。我々は本日最後の視察地である延吉駅に到着した。駅前は地方中枢都市としてふさわしくネオンが輝いていて、それなりのにぎわいを見せていた。駅前では、鉄北路と駅前街が交差するところにロータリーがあり、計画的に道路が整備されている。ホテルや飲食店、小売商店などが立地しているほか、薬局が多くあることが目に付いた。開発区の項で上述したように、延吉が製薬産業の原料となる自然資源に富んでいて、製薬産業の立地が多いという特色を持つからであろう。駐車場には青島までの長距離バスなども停車していた。
延吉駅は、長春、ハルビン、瀋陽、大連、北京への直通線のほか、黒龍江牡丹江鉄道ともつながる。また、ザルビノ港(ロシア)へと続くマーハリンダ行き、羅津港へと続く図們経由南陽行きという、ロシア、北朝鮮へ向けた貨物列車が通る駅である(延辺投資ネット「延吉経済開発区」)。 待合室もソファーや綺麗なトイレなど、かなり清潔で落ち着いており、リラックスな空間を提供していた。待合室にいたのは多くが中年世代以上から80歳代くらいの人々であり、私たち以外では、70人弱が各々の列車の到着を待っていた。大きな旅行トランクを持っている人が多い。私たちは、夕食をとるため自由行動とし、メンバーはそれぞれ思い思いのものを食べるべく一時解散した。
夕食を終え、プラットホームに入ると、別のプラットホームには貨物列車が停車中であった。延吉は物流の中継地点としての側面も持っており、高速道路などのインフラが整備されてもなお、鉄道は貨物輸送手段としての機能を失ってはいない。 私たちは列車へと乗り込み、それぞれのベッドで就寝。次の巡検地であるハルビンへと向かった。